2011年09月18日
「命どぅ宝 対馬丸の悲劇」~最終上演今日3時パレット市民劇場
命どぅ宝 ~対馬丸の悲劇~」という劇団結い座公演がパレット市民劇場で行われています。
今日午後3時には最終上演があります。
生存者の聞き取りをもとに脚本も書き起こしているようです。
少しでも多くの方に足をお運びいただければと思います
先月、沖縄へ帰省のおり、かねてから訪ねてみたかった対馬丸記念館へ足を運びました。
対馬丸遭難。
かつてはそう呼んでいました。
しかし、沖縄から学童らを乗せて九州へ向かう疎開船が、米軍の潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されたことから、
「遭難」ではなく、「撃沈事件」という表現に変えたそうです。
この記念館へ足を運んでみると、知らなかった事実に直面しました。
・学童疎開船をねらった攻撃は後にも先にもこの対馬丸だけ。
・疎開船は対馬丸の他にもう一隻。
・三隻の護送船がついていながら、対馬丸の沈没後、二次被害を避けるため、船から投げ出された子ども達を救助もせず、そのまま避難していった。
・対馬丸は上海から兵隊をのせて沖縄へ入ったことから、米軍に目をつけられていたのではという見方がある。
・対馬丸を撃沈した潜水艦の名前は、ボーフィン号。ニックネームは「真珠湾の復讐者」
・対馬丸撃沈事件は厳重な箝口令(かんこうれい)によって家族にすらその事実を口外してはいけなかった。
・生存した人たちは「あなただけ助かって」と遺族から心無い言葉も浴びせられたりした人もいたり、辛い経験を他言できない新たな苦しみが襲ったこと。
・悪石島付近で沈没したにもかかわらず、奄美大島の宇検村枝手久島に多く遺体が打ち上げられていたこと。
・生存者や遺族の方々は、渡米して潜水艦船員への聞き取り調査など独自の調査を継続していること。
などなど、展示だけでは解説できないことなどが、会報などによってレポートされていました。
パンフレットには
「対馬丸に関する確かなデータは一つもないこと。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被災実態調査がされませんでした。このことも対馬丸撃沈事件の本質として語っていただけたらと存じます」
と断ったうえで、基礎データを載せています。
その一部をあげてみます。
対馬丸の全乗船者1788名のうち、学童は834名。
(当日取りやめたり、急きょ乗船させたりした人もいるので不確か)
うち、漁船、哨戒船で救助された疎開者 177名
船員、砲兵 82名
奄美大島に漂着して救助された人 21名 計280名
私の友人のお母様がこの生存者です。
奄美大島の方にお世話になったといって、お二人で宇検村を訪ねてこられていました。
映画「タイタニック」が上映していたころ、あの映画を観て、対馬丸の体験を次々に思い出したことも伝えきいています。
今朝の沖縄タイムスには、館の厳しい運営状況が載っていました。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-09-18_23601/
さらに、昨日と今日、「命どぅ宝 ~対馬丸の悲劇~」という市民劇がパレット市民劇場で行われています。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-181783-storytopic-7.html
今日午後3時には最終上演があります。
生存者の聞き取りをもとに脚本も書き起こしているようです。
少しでも多くの方に足をお運びいただければと思います
「悲劇を過去の歴史的事実にとどめることなく、二度とこのような悲しみを繰り返さないための学びの場でありたいという目的で、対馬丸記念館は建設されました。
戦争に巻き込まれ、犠牲になった子ども達のことを風化させることなく次の世代へ継承していきたいと考えています。」
(パンフレットより)
対馬丸撃沈事件の継承に協力してくださる「対馬丸協力会会員」も募集しているようです。
対馬丸記念館までお問い合わせください。
今日午後3時には最終上演があります。
生存者の聞き取りをもとに脚本も書き起こしているようです。
少しでも多くの方に足をお運びいただければと思います
先月、沖縄へ帰省のおり、かねてから訪ねてみたかった対馬丸記念館へ足を運びました。
対馬丸遭難。
かつてはそう呼んでいました。
しかし、沖縄から学童らを乗せて九州へ向かう疎開船が、米軍の潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されたことから、
「遭難」ではなく、「撃沈事件」という表現に変えたそうです。
この記念館へ足を運んでみると、知らなかった事実に直面しました。
・学童疎開船をねらった攻撃は後にも先にもこの対馬丸だけ。
・疎開船は対馬丸の他にもう一隻。
・三隻の護送船がついていながら、対馬丸の沈没後、二次被害を避けるため、船から投げ出された子ども達を救助もせず、そのまま避難していった。
・対馬丸は上海から兵隊をのせて沖縄へ入ったことから、米軍に目をつけられていたのではという見方がある。
・対馬丸を撃沈した潜水艦の名前は、ボーフィン号。ニックネームは「真珠湾の復讐者」
・対馬丸撃沈事件は厳重な箝口令(かんこうれい)によって家族にすらその事実を口外してはいけなかった。
・生存した人たちは「あなただけ助かって」と遺族から心無い言葉も浴びせられたりした人もいたり、辛い経験を他言できない新たな苦しみが襲ったこと。
・悪石島付近で沈没したにもかかわらず、奄美大島の宇検村枝手久島に多く遺体が打ち上げられていたこと。
・生存者や遺族の方々は、渡米して潜水艦船員への聞き取り調査など独自の調査を継続していること。
などなど、展示だけでは解説できないことなどが、会報などによってレポートされていました。
パンフレットには
「対馬丸に関する確かなデータは一つもないこと。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被災実態調査がされませんでした。このことも対馬丸撃沈事件の本質として語っていただけたらと存じます」
と断ったうえで、基礎データを載せています。
その一部をあげてみます。
対馬丸の全乗船者1788名のうち、学童は834名。
(当日取りやめたり、急きょ乗船させたりした人もいるので不確か)
うち、漁船、哨戒船で救助された疎開者 177名
船員、砲兵 82名
奄美大島に漂着して救助された人 21名 計280名
私の友人のお母様がこの生存者です。
奄美大島の方にお世話になったといって、お二人で宇検村を訪ねてこられていました。
映画「タイタニック」が上映していたころ、あの映画を観て、対馬丸の体験を次々に思い出したことも伝えきいています。
今朝の沖縄タイムスには、館の厳しい運営状況が載っていました。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-09-18_23601/
さらに、昨日と今日、「命どぅ宝 ~対馬丸の悲劇~」という市民劇がパレット市民劇場で行われています。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-181783-storytopic-7.html
今日午後3時には最終上演があります。
生存者の聞き取りをもとに脚本も書き起こしているようです。
少しでも多くの方に足をお運びいただければと思います
「悲劇を過去の歴史的事実にとどめることなく、二度とこのような悲しみを繰り返さないための学びの場でありたいという目的で、対馬丸記念館は建設されました。
戦争に巻き込まれ、犠牲になった子ども達のことを風化させることなく次の世代へ継承していきたいと考えています。」
(パンフレットより)
対馬丸撃沈事件の継承に協力してくださる「対馬丸協力会会員」も募集しているようです。
対馬丸記念館までお問い合わせください。
Posted by しまあそび at 12:28
│Comments(0)
│平和
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。